京都嵐山の「常寂光寺」のすぐ近くに、「落柿舎(らくししゃ)」という遺跡?があったので、寄ってみること。
「落柿舎」は、江戸時代の俳人に関係するらしい。
落柿舎(らくししゃ)は元禄の俳人向井去来の遺跡である。去来は芭蕉の門人にて師翁の言葉に、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称 えられた。去来が落柿舎を営んだのは、 貞享 四年(1687)の以前で、芭蕉が初めて訪れたのは元禄二年(1689)、 併せて三度来庵す。元禄四年には四月十八日から五月四日迄滞留し、その間に『嵯峨日記』を誌した。
現在の落柿舎は、蝶夢門下の井上重厚が、明和 七年(1770)に再建したものにて、当時すでに去来墓は現在地にあった。重厚は嵯峨の人にて向井家の支族と云う。
去来の『落柿舎記』には、庭に柿の木四十本あり、その柿の実が一夜のうちに殆どおちつくした。それが落柿舎の名の由来とかかれている。都からきた商人が一貫文を出して、柿の実を買う約束をして帰る。その夜去来が寝ていると「ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるる声、よすがら落ちもやまず」翌朝さきの商人きて「梢つくづくと打眺め、我むかふ髪の頃より白髪生るまで、 この事を業とし侍れど、かくばかり落ぬる柿を見ず、きのふの値かへしてくれたびてんやとわぶ、いと便なければ、ゆるしやりぬ、この者のかへりに、友どちの許へ消息送るとて、みづから落柿舎の去来と書きはじめけり」
落柿舎の入口には常に蓑と笠がかけてある。これは本来庵主の在庵と不在を示すもので、ここに蓑笠がかけてあったら在庵、なければ外出中というしるしであるが、今は落柿舎の象徴として常にある。そこに古人の俳諧的生活表現を見るべきであろう。
「落柿舎」は、あの松尾芭蕉の門人、向井去来という俳人が営んでいた遺跡なんですね。松尾芭蕉も来た事があったらしい。
「落柿舎」の名前の由来の通り、庭には柿の木が。12月なのでほとんど柿は枝から落ちてましたけど。
柿で思い出した俳句が、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。
そうか、向井去来の俳句だったのか・・・と思いきや、この俳句は正岡子規でした・・・。
向井去来の俳句は・・・
- 秋風や白木の弓に弦はらん
- 湖の水まさりけり五月雨
- をととひはあの山越つ花盛り
- 尾頭のこころもとなき海鼠哉
- 螢火や吹とばされて鳰の闇
- 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
- 応々といへど敲くや雪の門
- 岩鼻やここにもひとり月の客
見事な俳句過ぎて、素人の自分にはよくわからん俳句・・・。
【落柿舎】
京都府京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20
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